プーチン氏はウクライナにおける進行中の侵略戦争を悲劇と呼びました。それは悲劇だがこれしか方法がなかったのだと自己弁護しました。ウクライナが非ロシア的で反ロシア的な「西欧民主主義国家」となり将来NATO(北大西洋条約機構)に加盟してNATOの基地を置くようになることを許すことが出来ませんでした。おれの目の黒いうちは、いや青いうちは、断じて許さん、という気持ちだったのでしょうね。ウクライナはロシアの一部だ!と勝手に決めて侵略しました。
ウクライナ人はロシアから独立し、ウクライナ民族の自決を目指しています。ウクライナの国歌がそれを雄弁に物語っています。
日本語訳歌詞 / Japanese Translation Lyrics
1.
ウクライナは未だ滅びずその栄光も 自由も同胞よ 運命は我らに再び微笑むだろう我らの敵は太陽の下の露の如く消え我らは国を治めよう 我らの地で 魂と身体を捧げよう 我らの自由のために そして示そう 我らがコサックの子孫であることを! 2. 同胞よ 戦場であろうとも 我らは立とう サン川からドン川まで 我らは認めぬ 他者による支配を 黒海は微笑み 父なるドニプロ川は歓喜に満ちる ウクライナでの 幸運の再来に 魂と身体を捧げよう 我らの自由のために そして示そう 我らがコサックの子孫であることを! 3. 我らの忍耐と 誠実なる努力は報われ 自由の歌は ウクライナの地に響き渡る その歌はカルパチア山脈に反響し 草原にも鳴り響く ウクライナの名声と栄光は すべての国に知られるのだ 魂と身体を捧げよう 我らの自由のために そして示そう 我らがコサックの子孫であることを!
まさに今歌われ、この祖国防衛戦争の中で歌われんがために作られたような国歌です。しかし、ウクライナが独立し、民族自決への道を歩む中で、その闘いの中でいつも何度でも歌われてきたのがこの国歌であるのでしょう。始祖たちが打ち立てたキーフ公国がモンゴルの騎馬軍団に滅ぼされた後(1240年キーフ占領、ウクライナにとっては西の元寇と言うことも出来るでしょう。同じモンゴルの軍が日本を侵略したのは1274年と1281年です。)辺境のドニエプル川流域などにコサックという最強の騎馬団が生まれタタールなどの遊牧民に襲われていたスラブ民族が逆にタタールを襲って収奪するまでになりました。始め、コサックは北欧のバイキングやアメリカの西部開拓者、カウボーイのような存在だったかも知れません。コサックのリーダー達はその後ポーランドの配下などにありましたが1648年頃コサックの王フメリニーツキィーがポーランドに対して蜂起し、ウクライナを復興しました。(物語 ウクライナの歴史 中公新書 元駐ウクライナ大使 黒川祐次著 より勘案)
時代は飛んでウクライナが無理やり属国となったソビエト連邦の崩壊の後に1991年8月24日にウクライナ独立宣言が発せられました。その後も前もウクライナの複雑な歴史の中で、その民族自決の道は暴虐によって踏みにじられ、しかし暴力あるいは非暴力の闘争で闘い取られて来たのです。
国家の主権のかかわる防衛戦争について、その国家や国民の運命や未来のかかっている闘いについて異邦人、外国人が口を出せることは限られていると思います。私個人は新約聖書におけるイエス・キリストの教え、世界観を比較的素直に受け入れて非暴力主義、特に人を殺さない主義を取っていますので武力による防衛の任務に服することは出来ないと考えています。ただし、その価値観をウクライナ人や日本の自衛隊などの国防のための戦争努力に反対して押し付けることは出来ません。人に自分の価値観を押し付けることは争いに通じ、良心の自由を妨げ、偽善を生むからです。
結局、民主主義と国家の主権を尊重すると戦争の采配、停戦や休戦、終戦の条件などの判断と決定はその国の政府と政権を委ねられた首長及び議会にまかせるしかありません。私達の出来ることは倫理上、人道的問題を深く認識し、それを防止するために圧力をかけ、場合によっては救出作戦などの計画実行を支持したり促したりすること。そしてもちろん祈り、支援することです。
タイトルにある「平和の道」とは非暴力で敵を殺さずに行う抗議や抵抗の道です。これには時に暴力を身に受けたり、ハンストなどで自分を犠牲にして行う抗議や抵抗を含みます。ガンジーやキング牧師などの抵抗運動の道です。ただし、多くの場合民族自決、国家主権を守る道は将来の平和への道であっても暴力を伴う道になってしまいます。私はこれを一概に非難することは避けたいと思います。正義を実現する方法について何でもやっていい訳ではないでしょうが、いのちをかけて困難な選択を行わねばならないのは当事者ひとりひとりであるからです。